コーヒーいっぱいのおもいで
この前の週末、やっとその喫茶店に辿り着くことができた。
先週と同じように午前中に買い出しを済ませると、僕は車庫からダブワンを引っ張り出す。
エンジンはすんなりかかったものの、一速に入れるとストールしてしまう。
困ったものだ。
かれこれ5分くらい、玄関前でエンジンをかけては止まりを繰り返していた。
窓から妻が顔を出し、心配そうに眺めている。
その奥では一歳の息子の泣き声が聞こえた。うるさくしてすまない……。
けたたましい音を出したり止めたりしていたら、お向かいのオジさんと目が合った。
「いいねえ。骨董品クラスだね」と、笑いかけてくれる。
度重なるキックで身体があたたまり、眼鏡のつるから汗が垂れた。
ヘルメットを脱ぎ、もう一度エンジンをかけながら「次また止まったら、今日は大人しくしていよう」なんて考える。
スムーズに出掛けられないこと、例えばエンジンが言うことをきかないとか、鍵が見つからないような時は、出先で何か不幸があるような気がするから。
それは『バリバリ伝説』の聖秀吉から学んだ。
何度かクラッチレバーを揉み、回転数を上げながら一速に踏み込むと、ガタガタと鳴きつつ繋ぐ事ができた。
暖まればこの状態がマトモになることは知っている。そして、クラッチの調整もほぼ限界であることも感じていた。
走り始め、セコンドで引っ張ると、速度より回転数が先に走る。やはりクラッチが滑っている。
次の車検までにはクラッチ板を交換しないと……と思いつつ、暖気走行を続けてから国道に出た。
自宅から30分ほどでその喫茶店に到着した。
インテリアは両親が数年前まで経営していた飲食店とそっくりな作り(デザイナーが同一人物)で、なんとも言えない気持ちになる。
いや、はっきり言ってしまえば、とにかく懐かしく、まるで実家にいるような錯覚を起こし、込み上げてくるものさえあった。
同じ壁材、カウンターを囲う柵のデザイン、照明、テーブルの天板、全てが同じ。
人によってはレトロだという感想を抱くだろうその内観。私にとっては生家に帰ってきたような、ノスタルジーを感じる空間なのだ。
挽かれたばかりの豆の、タバコの煙のにおいがする。なにより、ここに漂う空気そのものが、僕を育てた場所によく似ていた。
幼少期のあの日と同じようにカウンターに腰掛け、ソーダ水をねだったこと。
仕事帰りの疲れた身体をモケット地の椅子に預け、父に向かって愚痴を溢しながら、アイスコーヒーを飲んでいたいつかの夜のこと。
そんなことを思い出していた。
この店には何度も来たことがあったが、両親が店を閉め、今年の頭に父が死亡してから、訪れたのは初めてだった。
数年振りに来て、こんな気持ちになったのも初めての体験だった。
少し大袈裟かもしれないが、押入れから引っ張りだした古いアルバムと日記の中に入ることができてしまったような感覚があった。
帰り際、生前の父と交流のあった店主と、ひとこと二言の会話をした。
店と父の最期や、誰も家業を継がなかった話。
会計を済ませ、店を出ると夜が近かった。
ヘルメットを被る頃、父の顔を思い浮かべる。
同時に、過ぎていってしまった時間は戻ってこないという当たり前の理を。
そしてすぐ後には、自分が帰るべき場所までの道のりを頭に描いた。