〈証言〉「もうあれは、婆の厚化粧や」延命策として登場したカワサキW3/650RS
1973年、カワサキ650RS通称W3が登場
「なんであんなものをねえ。ディスクを2枚も付けて、あんな重たくして……。まあ、やるような車じゃないって言うて、だいぶ私ら反対してましたけどね。しまいには、もうあれは、婆の厚化粧やって言うてる訳ですけどね。(稲村暁一/川崎重工エンジン開発担当)」
出典:「W1FILE W1の技術文化史」
W3/650RSが次代と並走し、渡したバトン
1972年(昭和47年)にはZ1が鮮烈なデビューを果たしていた。
それまでカワサキの大排気量車として活躍していたW1も、ホンダCB750の登場によってその注目度が薄れていったことは想像できる。4気筒の時代がやってきていたのだ。
ではなぜWシリーズの最終モデルであるW3は、Z1デビュー後も販売を続行していたのか。
そこにはいくつかの理由があるようです。ひとつは、ホンダ・カワサキ・ヤマハ・スズキの国内4メーカーの申し合わせによって、日本国内におけるオートバイの最大排気量は750CCという決まりがあったこと。
カワサキもZ1の国内版ともいえるZ2(750RS)の開発を急いでいたが、完成・発売までにはしばらくの時間がかかっていた。
また、カワサキの営業サイドからも、果たしてZ1のスケールダウン車であるZ2が、ホンダCB750よりも売れるのだろうか。そして、DOHCのこんな高性能車が市場に受け入れられるのか、確信が持てずにいたようだ。
そこでカワサキは、Z2が市場で安定して売れるまで、W系の販売を中止することはリスクだと考えた。
こうした経緯もあり、650RSすなわちW3が誕生し、1972年に販売がスタート。Z2と同じくRSの名を冠されることになった。
つまるところ、営業側の事情による延命策として造られたマシンがW3だったということだ。
(もっとも、そんな営業サイドの心配を他所に、Z2は爆発的ともいえるヒット作になり、カワサキは改めて「世界最速」の名を取り戻していく…。)
W3のスタイリングについて今見ると、生い立ちも含め英国車的だったそれまでのW1シリーズにくらべ、非常に日本車的にまとまっていると感じられる。
しかし、冒頭の稲村暁一氏の発言からは、エンジニアにとってあまり気乗りするプロダクトではなかったことが窺い知れる。そこがとても興味深い。
W1のルーツを辿ってみると、1960年のメグロK1発売からすでに13年が経過し、その手本とされたBSA A10から数えれば相当な年月が経っている。
設計・開発に携わった当事者たちから見れば、Wシリーズが当時としてもいかに前時代的な設計の車だったかがわかると思う。
英国車の乗り味を求める当時のファンからは辛辣な評価を受ける場面もあったようだが…。
フロントWディスクにリフレクター付きのサスペンション、ハザードスイッチ、Zと共通の各部品群は、まさに「婆の厚化粧」であったのかもしれない。
海外での展開を意識していたこともありW1、W1Sと次第に英国的デザインへと進化していった。
そして、W3では一転して日本的な佇まいへと変貌を遂げたように思える。
しかし、このデザインの流れこそが、日本のメーカー、そして日本車がついに手に入れたもののように感じる。
つまり、それまで模倣によるモノづくりを行ってきた自動車・二輪車産業からの脱却と言えるような気がする。
故・多田憲正氏のデザインしたガソリンタンクも含めたW3の出立ちは、実に70年代中盤のカワサキ車らしく、OHVのW系最終型として非常に印象的な1台だ。