「バイクだよ。バイクでなけりゃダメなんだ」

画像は東本昌平氏のウェブサイトより拝借

https://www.sankei.com/article/20250807-SIJNDRTVAJJNROUR7K6FVANEL4/

東本昌平氏の訃報を聞いた。

ここで氏やその作品について「自分がどれだけのファンだったか」か、という事を書くつもりはない。


代表作は言うまでもなく「キリン」だと思うが、漫画の内容は説教臭い。

スピードとは何か。から始まり、バイク乗りという生き方、そしてその果てにある生や死について語られる(主に「ポイントオブノーリターン」編と「ホリゾンタルグレイズ」編)。

それらには答が用意されているわけではない。

オートバイに跨り、登場人物たちがさまざま角度からその問答に取り組んでは、虚無や意地のようなものに辿り着く。

それは四ツ輪に"ぶっちぎられた"後に訪れたり、事故やバイク仲間のリタイヤ、あるいは死によってもたらされたりする。


作中で繰り返される「あっち側とこっち側」という表現。

これはこの難解とも言えるテーマを平易に表した一言だと思うが、「説明したところでどうせ分かりっこ無い」という諦めも含まれている気がしていた。

「こっち側」つまり、バイク乗りであるかどうか、またオートバイ乗り続けているいるか否でラインが引かれており、ライダー達が置かれた立場や葛藤が描かれる。

チョースケの今際にも「なぜそのような事をする?」といった問いかけがなされているが、それに対する答えは「あぶないからさ」と、事も無げに答えていた。

くだらない「駆けっこ」のために時速200~300kmに迫る速度で公道を走り抜ける。

外から見ればイカれた連中であり、理解を得ることは難しい。

その行為を肯定するようなことはしないが、「オートバイというものが理解されないことを理解する」という気付きがそこにはあることは確かだ。


ライダー達の抱える死生観は、何も特別なものでは無い。

生と死はそこかしこににただ在る。

オートバイに乗っている人ならば、誰しもが時にすれ違い、時にアスファルトの上で虚しくも四散する、命という存在。

手に取って感触を確かめることができそうなほと剥き出しになったその存在を意識したとき、震えながら「死んでいたかもしれない」と考える。

そして、そう振り返ることができる恐怖と幸福の狭間、「生きている」、つまり、自分がまだ「生き物」でいられたというらある種の爽快さに触れてしまう。

だからオートバイ乗りという生き方をやめられないでいる。


チョースケが事故死した一方、生き残ったキャラクター達がそれを表す。

由比でガードレールを突き破り、海に落ちたキリンは、晴れやかな表情でモヒから貰ったショートホープを吸っていた。

首都高で事故を起こしたマサキも、地面から起き上がるなり、ただひたすらに声を上げて笑っていた。

この辺りの描写が、作者が語りたかったテーマのように(勝手に)思う。

これの何が楽しいのだろう。

乗ったり降りたりするのは自由であるはずだ。

しかし、彼らは「バイク乗り」であること、またその姿勢を貫くことに対し、危険なほど執着してしまう。

その理由は、オートバイに纏わりつくスピードという概念なのかもしれない。


スピードとは何か?

私が氏の作品を読んで受け取ったのは、前述したものたちをやり取りするための「賭け賃」であるということ。

つまり、スピードを上げれば上げるほど「死」の存在に急接近し、一方でそれに打ち克つことが出来れば、抱えきれぬほどの「生」をほんのひと時だけ享受することができる。

作中ではこれを「祝福」という言葉で表し、それとともに頭の中でファンファーレが鳴り響く描写がある。

オートバイに乗るという極端に言えば無意味な行為が、唯一報われる瞬間。

こんな風に、スピードに取り憑かれ、この大きな矛盾の中で葛藤や問答を続け、ただ路上を彷徨うキャラクターたち。

その姿は、「誰かにとっては全く意味の無いことであったとしても、当人にとっては大きな価値のあること」を表していると、そう言うことができるかもしれない。


言うまでもなく「キリン」は漫画でありフィクションだが、東本昌平氏の作品から学んだことは多かった。

ありがとうございました。


私も思う。

「バイクだよ。バイクでなけりゃダメなんだ」

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