あの日、SR400が教えてくれた「オートバイ」
SR400、言わずと知れたヤマハのロングセラーモデルである。
登場したのは確か1978年だから、立派なクラシックモデルということになる。
よく雑誌なんかで「最も長い歴史を持つ」なんて言われて、僕はそのたびに「スーパーカブがあるでねえか」と思っていた。
しかしここでいう歴史とは、同じ構造(エンジン・フレーム等々)という括りらしい。
そうであれば納得。スーパーカブは長い歴史と共にエンジンやフレームを変身させてきた。
僕がSRに乗っていたのは20代の前半から25歳くらいの頃だったように思う。
某オークションで出品されていた放置車両を兄が見つけ、買ってくれたのだ。
兄は兄でちょうどSRにハマっている頃だった。
初期型のSR400に乗っていて、タックロールシートに黒いタンク、ヤマハから取り寄せたGX400SPのハンドルをつけていた。
兄はすでに社会に出ていて、ちょこちょことSR400をカスタムしていた。
一方で、当時僕は大学院生でお金がなかった。
出品者は近所に住んでおり、なんでも「引越しが迫っているから早く処分したい」ということだった。
直接話し、兄が「4万5千円でどうか」と尋ねると「そんなにいただけるんですか?」とありがたい反応をしてくれた。
およそ10年以上前の話だ。
今となってはオンボロでも数十万円はするSR400だが、当時は歩道橋の下に打ち捨てられた車体なんかもよく見かけるくらい、値段のつかないマシンだった。
2000年代のトラッカーブームの落とし子ともいえよう。
SR400はたくさん売れてたくさん放っておかれていた。
もとより、ブームで乗り始めた層なので仕方ない。
僕が手に入れたSR400も例に漏れずカスタムが施されていたが、どちらかといえばカフェレーサー的な改造だった。
年式は2003年くらいで、ドラッグスターと同じディスクブレーキが装着されたRH01J型というやつだ。
ヘッドライトステーとシート、テールランプ等がブルックランズやペイトンプレイスのものに変えられていた。
シートはかつて京都にあったオフィシャル(後にデイトナから販売されていたと思う)の物がついていて、その他細々した物も交換されていたように思う。
あちこちくすんで曇っていたけれど、車体をダメにするような致命的なサビは無く、事故歴もなさそうだった。
「どうせ処分するだけだから」と、多くの純正パーツとBUCOのジェットヘルメットも頂戴した。
取引が済むと私と兄は担いできた空気入れを使ってタイヤにエアーを入れ、自宅までSR400を押して帰った。
「これが僕のものになるんだ」というわくわくした気持ちと、「それなりにお金がかかるだろうなあ」という焦りが頭をよぎったように思う。
僕はその当時、知り合いからタダ同然でもらったCBRに乗っていた。
CBR250Rといっても新しい方では無く、「ハリケーン」のペットネームが付けられた89年式(MC19)のオンボロだ。
SR400の修理費を捻出するために、このCBRは売りに出すことにした。
これまた某オークションで、17万円くらいになったことを覚えている。
今だったらもっと高いのだろうか。
250ccの4気筒、カムギアトレーンで19,000rpmというやつで、音だけが速いマシンだった。
そんな風にしてSR400を直すことにした。
今思えば当たりの車両だったと思う。
あちこち部品は変わっているが、新車時に取り替えられたらしく、ピカピカの純正パーツが手元にあった。
放置されて時間は経っているが、キャブレターの洗浄程度でなんとかなりそうなレベルだ。
後日、ヤマハから純正部品(主にゴム類とボルトナット)を取り寄せ、各部のメンテナンスをしながら組み立てていった。
油を換え、グリスを落としては磨きまた塗り直す。
くたびれたゴム類を交換し、キャブレターを洗う。
程なくしてSR400は出来上がったが、そうなると次はイタズラしたくなるのがオートバイ乗りの性でもある。
まずはマフラーだった。
マフラーは知り合いのSR400乗りが貸してくれた。
オフィシャルのステンレスメガフォンマフラーで、いわゆる後期型の出口が狭いタイプだ。
排気音は想像していた「ドコドコ」というものでは無く、「テゲテゲ」という奇妙な音を鳴らしていた。
その後、兄が某オークションサイトでオフィシャル製の前期型メガフォンマフラーを買った。
兄は自分の初期型SRに装着するのかと思いきや、僕のRH01J用にとそれをくれた。
音はカッコよかった。如何にも単気筒という排気音が鳴った。
ただ、ノーマルのキャブだったため薄い状態になってしまい、アクセルオフの度にパンパンと情けない音がする。
RH01JにはシリンダーにAISという環境配慮の機構がついていて、これは二次エアーを取り回すからくりだったように記憶している。
コレを取り外し、代わりにメクラの蓋をする。
AIS(エアインダクションシステム)はエアクリーナー横に配置されている。
エンジンとそれを繋ぐパイプにパチンコ玉を入れ、実質的にAISをキャンセルにするという事をしていた。
AISそのものを外しても良かったのだが工数が増えるのと、車検時にまた取り付ける手間を考えてこのようにした。
キャブレターを調整し、なんとかパンパン言わなくなったところで走った。
すると次に気になったのはハンドルだった。
「ハンドルを換えたい」
一度考えはじめるとその事にしか脳のCPUが使えない。
色々見ていくうちにXS650やW1のハンドルがやはり着けたくなる。
当時からこの路線が好きなのだ。
ついに見つけたのはデイトナから出ていた「70"sハンドルシリーズ」なる物で、CB750や750RS、そしてXS-1などのレプリカ的ハンドルたちだった。
これしかないと思ったが、ハンドル交換は手間と金がかかる。
純正ハンドルと変わらないサイズなら問題ないが、大きく幅の広いハンドルに交換するとなると、各種のワイヤーにホース、配線も延長しなければならない。
しかし、ノーマルのSRのハンドルがどうにも好きになれない(初期型のハンドルはカッコいい)。
ステップの位置が後退していればまだサマになる乗車姿勢だろうが、この型はステップ位置もかなり前でわハンドルも中途半端に低い。
ライダーが乗っている姿も、なんだか格好が悪い気がしてならなかった。
アルバイトで稼いだお金をはたいてハンドルとその他ケーブル類を買った。
ブレーキホースはプロトのスウェッジラインを選んだ。
「いかにも」な「ステンメッシュ」は死ぬほど流行ったけれど、僕は好きになれなかったから黒色を選んだ。
長さは1,200mmだったかな? 少し曖昧。適度な弛みの長さを知りたくて、何度もビニール紐で測ってから買ったっけ。
ワイヤー類は何を買ったのか忘れてしまった。は
配線の延長は一本ずつ切って伸ばしてと加工してもよかったのだが、近所のアップガレージにデイトナ製かなんかの10cm延長キットが売りにでいいたのでそれにした。
納車後のメンテナンスで換えたばかりのブレーキフルードに勿体なさを感じたりしながら、果たしてハンドルは交換できた。
乗ってみるとコレが良いのだ。
しかし、高く幅の広いハンドルに交換したことで、自然と背筋が伸びる乗車姿勢になった。
これにより、当たり前だが尻の重心位置が変わる。
走りながら何度も座り直したりしてみるが、100kmも走ると尻が痛くて堪らない。
前述のSRオジサンはワイズギアから出ていたタックロールシートに換えていたので乗せてもらうとコレがとても良い塩梅なのだ。
ただ、お値段も良い。確か新品で35,000円くらいだったのかな。
今は廃盤になっているらしく、オークションなどで高値がついているようだ。
アルバイト代が入るとすぐにそれを買った。
次の給料日まで財政難になったがそこは実家暮らし。
友達との飲み会には行けなくなるけれど餓死したりはしない。怖いものなしだ。
細かい部分で言えば、タンクの音叉マークを「YAMAHA」の金文字エンブレムに換え、ウインカーレンズを70年代のヤマハが採用していたいわゆる「おっぱいレンズ」に交換した。
フロントフォークに反射板を取り付けたことや、チェーンとスプロケットも別のサイズにコンバートした記憶がある。
そんな風にして、自分の満足す「70年代」「旧車っぽい」カタチになった。
そして同時に、XS650やW1に対する興味関心が大きくなって行った。
日に日に、目指した姿の本家本元に乗ってみたいと思う気持ちが大きくなって、ついにW1SAが目の前に現れた。
SRを手放したことは、兄に対して今だに後ろめたく思うことがある。
手に入れた当時のことを思い出す。
震災があり、就きたい仕事も見つからず、やることなすことが全て裏目に出ていた。
神経衰弱に陥っていた当時の僕を、泥沼の様な日々から救い出してくれたのは間違いなくこのオートバイだった。
家の近くのよく通る道にマンションがある。
道路に面したエントランスは大きなガラス張りの自動ドアになっていた。
その前をSRで通る時、必ず自分とSRの姿を横目で見た。
ナルシスティックで今なら噴飯ものだが、21歳かそれくらいのニイチャンだったのだ当時は。
しかし、そんな経験が誰にもあるだろう。
僕はほぼ毎日、SRに乗った。
東京から神奈川までの通学と、卒業して就職してからも、夜になるとSRのエンジンをかけ、近所を一回りしてから眠りについた。
走行距離はどんどん増え、2年で約1.5万キロ走った。
単気筒の単純で爽やかな性格のエンジンと、「足を知った」フレーム、足回りが、転がる楽しさを教えてくれた気がする。
訳もなく走り、訳もなく路肩にSRを止めては景色か何かを眺め、それにはすぐ飽きる。
飽きると自分の単車を眺める。
タバコ一本のつもりが二本、三本と、アホのように長い時間見つめていたことを思い出す。
そんな風にして過ごした時間は、まさしく僕とオートバイのかけがえのない瞬間だったと、今ならよく分かる。
あんな風にして毎日毎日、オートバイと戯れることが出来たという時間そのものが今は恋しい。