会いたい友だち
会いたい友人がいる。
大学生の頃からの付き合いで、今でも時々いっしょに、夜中のラーメンを食べに行ったり、お互い子連れで、大きい公園なんかにいく。
彼はオートバイに乗らないけれど、ウマが合う。
「ゴーストワールド(映画)」について3時間話すことが出来るし、『笑うな(筒井康隆)』にある一文でニヤニヤとうなづき合うこともできる。
つまり、仲良しということだ。
そして、彼は頭がいい。なんというか、正統派の賢さを持っている。
就職を機に地元の静岡へと帰郷していたが、昨年末に都内の会社へ転職が決まり、帰京してきた。
(なんかこんなことを、前にも書いた気がする)
まあ、そんな彼に今会いたいのだ。
彼に今の自分のことを話して、意見をもらえたらと思っている。
そうだな、金曜の仕事が終わった後に会って、少しだけ車を走らせて、河岸にでも行きたい。
行きしな、眩しいくらいに明るい自販機で缶コーヒーを買う。
しかし、考えれば聞かされた方はあまり楽しくないよなあとも思う。
けれど、彼なら、たとえば「自分がその立場なら、これからどういきていくか」みたいなことを教えてくれそうな気がしている。
今朝、妻と自分の珈琲を入れながら、「今日、仕事でやることとその順番」をぼんやり考えていた。
妻と倅はまだ布団にくるまっている。
その時ふと「俺はこんなことをやっている場合なのか」と思った。
確かに、生きていくためにはお金が必要で、そのためには自分の時間を仕事に捧げる必要がある。
ただ、僕の病気は10年後なんかに車椅子が待っているような、厄介なものなのだ。
それを思えば、妻と子どもと、まだ身体が動くうちに、この時間を充てたほうが良いのではないだろうか。
もちろん医療が発達して、その間に画期的な治療法が生まれる可能性もある。
だから、5年や10年先のことなんて分からないし、あまり悲観的にならないほうがいいのかもしれない。
そう。そんな事をぼんやりと考えながら、「彼ならどんな風に整理するだろう」と思う。
正直に言えば今、自分の置かれている状況はあまり出来ていない。
難病申請の手続きについて説明を受けながらも、なんだか自分に関係のあるようなことに思えていなくて。
「分かりました。では帰ったら父に伝えておきます」というような感覚なのだ。
分かっているけれど、理解していない。
この先、この手足の痺れが強くなり、そのうち麻痺になってしまうとしても、それが自分の置かれる状況であることだとは自覚しきれていない。
前向きに生きる、かあ。
君ならどうする。