2011年のCBR250R(MC19)

20歳の時、CBR250Rを手に入れた。

CBR250Rといっても最近の単気筒モデルではない。

「ハリケーン」というカッコいいんだか悪いんだから分からないサブネームがついた1989年式のオンボロだ。

型式はMC19。青と白を基調としたフルカウルには丸目の2眼ヘッドライト。

エクステリアで気に入らなかったのは、カウルに埋め込まれたフロントウインカーと、シングルディスクのブレーキ。

今なら何とも思わないような部分も、ハタチの若かった僕にはモヤモヤしたものだった。

このMC19が手元にやってきたのは、兄の知人が安価で譲ってくれたからだ。

支払った金額は確か3万円くらいだったと記憶している。もしかしたらもっと安かったか。

当時の僕が払えたくらいだから、そんな金額だっただろう。

その知人はカワサキのZRX400が欲しくなったらしかった。

バイク王だかの業者を呼んでMC19を査定してもらうと3万円だと言われたとかなんとかで、それなら知り合いに譲る…ということなり僕の元へ来た。

けれど当時、CBR250RR(MC22)でもないMC19なんて、不人気車でありこの査定は妥当な気もする。

今では40万円や50万円なんて価格だけプレミアな中古車を見かけるけれど。

YouTubeなんかではMC19が「ニハリ」と呼ばれているのを見かけるけれど、乗っていた当時そんなアダ名があったことを全く知らなかった。

MC22を「ニダボ」と呼ぶのは一般的な気がする一方で、「ニハリ」は何だか新米感があるよなぁ。

それもこれも、現行のMC41と区別するために生まれた名称なのかもしれない。

まあ、細かいことはいいか。

MC19のことを思い出すと、同時に東日本大地震のことを思い出す。

あの当時乗っていたのがこのCBRだった。気づけば僕は21歳になっていた。

2011年3月10日、ダイシン製のステンレスマフラーを中古パーツ屋に注文していた。

翌日、未曾有の震災が発生。

不測の事態とはいえタイミングが悪かったと思い、佐川急便には「急ぎませんので落ち着いてからで大丈夫です」という旨の連絡をした。

すると「いえ、通常通り配送します」との返事。

理由を聞くと「こちらもパニックでして、何をどうするという事がまだ決まっていなくてですね……」といった反応だった。

かくして手元にダイシンのステンレスマフラーが届いた。

連日、TVでは悲惨な映像が繰り返し流れていた。

僕は大学を卒業間近で、でも就職先は決まっていない状態だった。

先のリーマンショックに加え、仕方なく近所の図書館でアルバイトする事が決まっていたけれど、この震災で休みになっていた。

日本武道館で予定されていた卒業式は中止が発表され、4月からの入社を延期された友人の悲しい声が聞こえてくる。

様々な種類の無力感が僕の周りに漂っていた。

ただ漠然と本や文字に携わる仕事がしたいと考えていた。

編入組だったため大学卒業のギリギリまで単位の取得に奔走していた。

仕事先だって卒業してから見つけようという甘い考えだったのだ。

けれど、事実として就職活動には失敗し、災害が起こり、日に日に状況は悪くなっているように思えた。

若くて体力と時間もあったのだから、被災地へボランティアでも行けばよかったのだと、今なら思う。

しかし僕がしたことといえばオートバイに乗っただけ。

相変わらず財布は軽く、焦燥と不安を鞄いっぱいに詰め込んで。

自宅の車庫でマフラーを交換し、ガソリンスタンドに連なる長蛇の列に並んだ。

満タンにして、父(カブ110)と兄(アドレスV125)と弟(リトルカブ)、仕事でガソリンを使う人たちに分け与えた。

純正マフラーでは回転の上がりが鈍いように感じていた(だけだと思う)。

社外のマフラーに替えると、まるでつかえが取れたようにエンジンはよく回った。

タコメーターの針と共に鳴くその音が、ハタチそこそこの自分には楽しげだった。

「自粛ムード」の中、馬鹿げた排気音で走り回ることは憚られた。

けれど我慢できずに深夜2時、3時にCBRを引っ張り出しては1〜2時間だけ乗り回した。

繰り返し流れる公共広告機構のコマーシャルと地震速報、被災状況。

トイレットペーパーが無い。食パンが無い。米がない。仕事がない。

あの時抱えていたのは「将来への不安」みたいなものもそうだし、「明日の自分」も想像できなかったという、行き止まりのような感覚だった。

オートバイに乗ることで、一時的にではあるけれどそんな状況から解放されたような気でいた。

ガールフレンドでもいればまだ違ったのかもしれなかったけれど、逆に失恋を引きずっていたくらいの時期でもあった。

都内、装飾が派手なアライのフルフェイスヘルメットが、まだ夜が明けていない環七を走る。

音だけは速く、速度は失笑を買うほど遅い。

250ccの小さなエンジンを積んだ青と白のマシンにしがみつく、それがあの時の僕だ。

どこかに向かっているつもりで、目的地もなかった。

寝静まった街に光るハロゲンの灯りが、僕の行く末を頼りなく照らす。

何かに押し潰されそうな毎日を、あのCBRがいっしょに過ごしてくれた。


その後、いくらか世の中の混乱が落ち着いた頃、兄がNSR250R-SE(MC21)を買ってきた。

僕ら兄弟の中でちょっとしたレーサーブームが起きていた。

僕はデザインに懐かしさの漂うF-ONEのツナギを手に入れ、奥多摩周遊道路に出かけたりする事が好きになった。

めちゃくちゃなライディングフォームで初めて膝を擦った時、マシンを操る楽しさを知った。

今考えればダンロップ「α-12」の恩恵だったと結論づけられるけれど、たくさんの自信を失っていた当時の僕にとっては飛び上がるほど嬉しい体験だった。

兄と2台で伊豆ツーリングへ行ったり、喧嘩しながら走ったことはいい思い出。

マシンを交換して乗っても兄に追いつけなかったのは、やはり腕の差なのだろう。


峠にハマると、次はその文化が好きになった。

古本で「バリバリマシン」「バトルマガジン」を見つけては買い、峠で鍛えられたマシンたちに惚れていた。

剥がれた塗装に割れたカウル、それを補修するガムテープに結束バンド。

落ちていたものを拾って取り付けたようなヘッドライト、極端に低いハンドルと後退したステップ。

僕も同じように、いじくろうと思った。

カウルを取っ払い、適当な丸目のヘッドライトに換え、トップブリッジを突き出して、ハリケーンのセパハン。

でも、しなかった。

走り込んだ人が「結果的にそうなった」というマシンと「そのスタイルを目指したカスタム」では、似て非なるものだと思ったからだった。

僕はアンダーカウルを外すだけにして、後はそのままだった。


CBR250Rとは、SR400とバトンタッチする形でお別れした。

本当はその間に兄から譲り受けたNSRに乗っていた時期があるけれど、かなり短い期間だ。

CBRをオークションに出すと群馬だったか栃木だったかの人が落札し、程なくして軽トラで運ばれていった。

しかしその数年後、このCBRとは画面越しに再会した。

同じくオークションに出品されていたのだ。

僕が貼ったステッカー、コンバートしたチェーンとスプロケット。

そして、あのダイシンのステンレスマフラーがついていた。

白サビが浮いていたトップブリッジは、僕の後の持ち主が綺麗にしてくれていた。

走行距離もずいぶん伸びていて、その後もしっかり動いていたことを表していた。

「250cc4気筒」というジャンルが希少になった昨今では重宝されるようだ。

乗った感想は、走ればずいぶん疲れるマシンでもあった。

矛盾するようだが非常に「乗りやすい」性格であるものの、アクセルを開けなければマトモに走らないというのはなかなかに疲れる。

ただ、路面とコーナーを舐めるように走る楽しみというのは、このマシンが教えてくれたことだ。

あのCBRは、今どこで走っているのだろうか。

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