ひとりぐらし

嫁さんと倅(1歳10ヶ月)が実家に帰って2週間が過ぎた。

倅は大自然の中でのびのびしているようで、妻からはそのわんぱくな写真が送られて来る。

そして、僕の見ていないところで成長しているらしく、近頃は会話が成り立つという。

少し前までは「きゅうきゅうしゃ」くらいしか言えなかったのが、「きゅうきゅうしゃ、とおった」のように、二語をつなげられるようになったとか。

僕はといえば一人暮らしを満喫しているようで、実はさみしかったりする。

単身赴任のおとーさんの気持ちが、よく分かるような気持ちだ。

休日は整備にツーリングと、バイク的な日を過ごしたいと思いつつ、この暑さとじめじめした天気や雨を理由に、やっぱり車に乗ってしまう。

この前の土日は自分の実家(自転車でも行ける距離)に帰り、母を車に乗せて父の墓参り。

墓を洗いながら母と話したのは、墓守のこと。

孫は僕のところの倅しかいない。

そのため、この父の墓と先に逝く予定である母(倅にとっては祖母)の墓は、ある程度で合祀にしてくれとのこと。

その発言になんとも寂しい気持ちになるが、納得もしていた。

自分に置き換えて考えてみれば、僕は祖父祖母と交流はあった。

けれどもさらにその父母、つまり曾祖父・曾祖母のことはほぼ何も知らず、墓の在処も分からない。

そうか、こうして人は忘れられていく。

いつだったか、人が本当に死ぬ時は誰かに忘れられた時だと聞いたことがあるが、その通りなのだろう。

事実、倅は生後まもなく私の父である祖父を亡くしており、その記憶はないと思う。

そんな祖父の墓を息子に守れとは言えない。

ここ数年で、否が応でも死と向き合う機会が増えた気がする。

誰しもが最終的に辿り着く地点であり、この当たり前の現象に対して、なぜこんなにも忌避感を覚えるのだろうか。

線香に着火し、その場にしゃがみ込む。

父に想いを馳せ、自分や母の行く末と次の世代のことを考えた。

父と同じ75歳まで自分が生きるとして、ほぼ半分の歳月が過ぎている。

焦りにも不安にも似た形容し難い気持ちを抱えながら、帰りの車内で母となるべくくだらない話をした。

なんだかしんみりしてしまった。

仕事へ行かなきゃ。

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